2017年11月5日の礼拝説教

13、主の道を備えなさい
イザヤ書40章1〜8節

 皆さんは、どういう人が愚かな人だと思いますか。愚かな者は、過去に縛られて、未来に進むことが出来ない人だと、私は思います。私たちは、過去から教訓を学んで、希望を持って、新しい道を開拓する必要があると思います。

イザヤ書40章は、イザヤ書の中で、新しい始まりを開く箇所です。神学者たちは、イザヤ書40章からは、イザヤが書いたのではなく、イザヤの弟子たちが書いたと主張します。彼らがそのように主張している理由は、まず、イザヤ書1〜39章までの文体と40章以後の文体が明確に異なるからです。また、1〜39章までは、アッシリアの侵略が、背景になっていますが、40章以後は、バビロンの捕囚時代が背景になっているということです。

しかし、預言という観点から見ると、一人が、アッシリアに対して預言をして、また、続いてバビロンに対して預言をする事も出来ます。また、一人の人が、叱る時の言い方と励ます時の言い方が明白に違う可能性がある事を考えて見ると、彼らの主張に、同意することは出来ません。

アッシリアの侵略の後に、バビロンの攻撃を受けた南ユダは、bc586年に滅ぼされました。その後、ユダヤ人たちは、バビロンで70年間の捕囚の生活をしました。

しかし、バサーのコレスが、バビロンを滅ぼします。その出来ことによって、ユダヤ人たちに自由が与えられました。それが文字通りのイザヤ書40章の内容です。しかし、私たちは、40章に含まれている神様の御心を見る必要があります。ユダヤ人たちに与えられた自由が、私たちにどういう意味であるかを、考える必要があるという事です。その自由は、メシアであるイエス・キリスト到来によって与えられる罪からの自由を意味します。

イザヤは、ユダヤ人たちに、主の道を備えなければならないと教えています。また、私たちにも主の道を備えなければならないと教えています。私たちは、主の道を備える為に、何をすればいいのでしょうか。今日の御言葉に基づいて、主の道を備える為に、私たちは、何をすればいいかを皆さんと共に考える時間を持ちたいと思います。

第一に、罪が赦されるという確信を持つ必要があります。
イザヤは、バビロンの捕囚の生活で疲れ切っているユダヤ人たちに、希望と励ましに満たされているよい知らせを伝えます。40章1節です。

「 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。」

この慰めは、単純に感情的で、情緒的なものではありません。福音によって魂が罪から解放されるという約束の慰めの御言葉です。慰めの本質は、ユダヤ人たちの罪が赦されたという事です。もうこれ以上、ユダヤ人達は、審判を恐れる必要はありませんでした。なぜなら、既に、犯した罪に対して代価が支払われたからです。それが2節の約束の御言葉です。

「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。 」

ここで興味深い言葉があります。それは、「この良い知らせをエルサレムの心に語りかけ」という言葉です。この言葉の意味は、ユダヤ人たちが、心から、確信を持つ事が出来るように伝えなさいという意味です、つまり、全ての罪が赦されたことをユダヤ人たちに明白に知ら背なさいという意味です。罪が赦されたという確信は、私たちを過去から解放してくださって、未来に進む事が出来るように促してくれる恵みです。

イエス・キリストの十字架の贖いの死は、私たちが、過去の罪から離れ、未来の新しい生き方に向かうように導いて下さる恵みです。イエス・キリストは、私たちの罪を背負ってくださり、私たちの罪の代価としてご自身の命を贖いのいけにえとして捧げられました。イエス・キリストは、十字架の上で、次のように宣言されました。ヨハネによる福音書19章30節を探しましょう。

「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

イエス・キリストは、「成し遂げられた」と宣言されました。この宣言は、私たちの罪に対する代価が既に支払われたという宣言です。私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって罪の赦し、つまり、霊的な自由を神様から頂きました。

イエス・キリストを救い主として受け入れている人々に、使徒パウロは次のように語っています。ガラテヤの信徒への手紙5章1節を探しましょう。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

パウロは、続けて、罪が赦されたことを確かに信じている人々に次のように宣言しています。コリントの信徒への手紙5章17節です。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

この確信を持っている人は、天国の希望を持ち続け、この世のあらゆる苦難や難関を乗り越える事が出来ます。

第二、聖化の道を歩む必要があります。
イスラエルの人々が、バビロン捕囚から解放されたのは、本当に嬉しい出来事でした。しかし、バビロンから、約束の地シオン、エルサレムに帰る為には、まだ、長い旅をしなければなりませんでした。そして、イスラエルの人々を待っていたのは、山、坂、谷、砂漠の砂等、厳しい障害物でした。当時、早く歩いても、バビロンから、エルサレムまでは、約3ヶ月、4ヶ月くらいかかりました。イスラエルの人々は、約束の地シオンに帰るためには、次のようなことをしなければなりませんでした。3〜4節を読みましょう。

3節、 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

4節谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

ある神学者たちは、荒れ野を暗闇に満ちている私たちの心、山と丘を、私たちの傲慢な心、荒れ地を乾いている私たちの心だと解釈します。そのような私たちの心を、み言葉に基づいて取り除く必要があると言います。キリスト教教理でそのようなことを、聖化と言います。つまり、3〜4節の御言葉は、イエス・キリストを救い主として受け入れた後の私たちの生き方を示す言葉であるということです。イエス・キリストが再臨されるまで、御言葉に基づいて、神様が、願っておられる人生を過ごす聖化の人生を過ごす必要があるということです。

イエス・キリストの道を整えていた洗礼者ヨハネは、イザヤの預言を引用して、次のように言いました。ルカによる福音書3章3〜6節です。

「3節、そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4節、これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
5 節谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
6節 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」   」

聖化の道を歩む為に、私たちに必要なことは、悔い改めだと、洗礼者ヨハネは、語っています。つまり、私たちが完全にイエス・キリストを受け入れる為には、悔い改めが必要であるという意味です。

「私の心はキリストの家」という本があります。イエス・キリストを、私の心に完全に受け入れるためには、私の心全てを、イエス・キリストに捧げなければならないという内容です。

イエス・キリストが、私の心の家に来られると、私の家のリビングルームは、イエス・キリストと会話する場所になる。私の書斎は、イエス・キリストを悟る本で一杯になる。台所には、イエス・キリストと共に食べる食べ物が準備され、寝室は、イエス・キリストの香りで一杯となります。もし、イエス・キリストに見せたくない所があるとしても、イエス・キリストは、その場所をご覧になります。その時、主よ、そっちは、行かないで下さい。本当に汚いです。そっちはごみだけです。私一人で、掃除する事が出来ないです。その時、イエス・キリストは、次のようにおっしゃいます。私に任せてね、私がきれいに掃除するから安心してね。その時、本当に恥ずかしいけれども、イエス・キリストに全てのことを任せる事、イエス・キリストが、私の心の真の主人になるように、全ての事を、任せる事が、私たちに必要であるという内容です。そのような生き方が、聖化の生き方であり、主の道を整える生き方でもあります。救われた私たちが、待ち望んでいるのは、イエス・キリストの再臨です。私たちは、何を持って、イエス・キリストの再臨を待ち望む必要がありますか。

第三に、神様の御言葉を口ずさむ必要があります。
私たちが、聖化の道を歩み続けるためには、どうすれば良いでしょうか。イザヤは、次のように語っています。イザヤ書40章8節です。

「 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

聖書を読むということは、クリスチャンたちに本当に大事な信仰生活の中の一つです。目で聖書を見、口で御言葉を読み、心で御言葉を悟って、生き方を通して、その御言葉を表す事が、私たちのクリスチャンの生き方です。ある人は次のように言いました。「黙想がない読書は、乾燥無味のことであり、読書がない黙想は、過ちにおちいりやすい。黙想がない祈りは、能力はない、祈りがない黙想は、実を結ぶことは出来ない。」

皆さん!私たちが御言葉を読む理由は何でしょうか。私の答えは簡単です。御言葉の通り生きるためです。使徒ペトロは次のように語りました。第一ペトロの手紙2章2節です。

「 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。。」

皆さん!乳飲み子が、母親の乳を探す姿を考えて見て下さい。私たちが、乳飲み子のように、神様の御言葉を探し、愛し、求めているならば、また、御言葉を悟って、その御言葉に基づいて生きているならば、私たちは、そのみ言葉によって成長出来る人生を過ごします。そうすれば、私たちは、人生という荒れ野で、神様の道を整える人生を過ごす事が出来ます。
「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
この世にある全てのものは、いずれ消え去ってしまいます。しかし、神様の御言葉は、とこしえに立ちます。

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