救いの恵み

 

 

救いの恵み
イザヤ書12章1〜6節

 

人生は、砂漠を歩む事と同じではないかなと思います。見えない道、それさえも、砂の風でいつでも変わる道。いつ、吹き付けるか分からない砂嵐。厳しい暑さと寒さ。砂の丘に隠されて、後先も知る事ができない不安な未来。蜃気楼の誘惑。そして、乾きの苦しみ。そのような事が、私たちが歩んでいる人生の中で突然現れて消えているのではありませんか。

それでも、砂漠を離れずに、砂漠で生きている人々もいます。砂漠の旅行も楽しく挑戦する人々もいます。なぜなら、砂漠は、泉を持っているからです。山や川、海には、オアシスがありません。オアシスは、砂漠だけにあるものです。「星の王様」という本を書いたサンテグジュペリは、その本の中で次のように描き表しました。

「砂漠が美しいのは、所か分かりませんが、泉が隠されているからです」

人生という砂漠で、私たちが経験する事が出来る一番偉大な事は、救いの泉であるイエス・キリストに出会う事です。救いの泉であるイエス・キリストによって渇きが解決されます。救いの泉であるイエス・キルストは、私たちを休ませてくださいます。それが、イエス・キリストに出会って、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる最高の恵みだと、私は信じています。

救いの泉がない砂漠、つまり、救い主であるイエス・キリストが終われない人生は、絶望そのものだと思います。イエス・キリストは、マタイによる福音書11章28節で次のように語られました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

イエス・キリストは、私たちを安息のオアシスに招いておられます。また、イエス・キリストは、ヨハネによる福音書7章37節で次のように語られました。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

イエス・キリストは、私たちを救いの泉に招いておられます。

今日の聖書箇所で、イザヤは、救いの本質に関して語っています。イザヤが語っている救いの本質は、何であるかを、私は、皆さんと共に3つに分けて考えたいと思います。

第一に、救いの恵みの本質は、怒りではなく慰めです。
イザヤ書12章1節です。

「その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。」

アハズという人物が南ユダの王になりました。アハズは、北イスラエルの侵略から、南ユダや自分自身の王座を守る為に、アッスロという王国と手を組みました。アハズは、大変な時、危機にさらされた時、神様ではなく、人間を、世を頼りました。イザヤは、そのようなアハズに、預言しました。アハズが神様より信頼したアッスロが、南ユダを侵略し、南ユダを攻め滅ぼすと、イザヤは、アハズに神様の御心を伝えました。

イザヤの預言通り、アッスロは、南ユダを滅ぼすために、攻撃を始めます。しかし、どういう事があったかわかりませんが、南ユダを侵略したアッスロは、急に、退却しました。イザヤは、アッスロを退却させたのが、神様であり、また、神様の救いの恵みが、南ユダに与えられたと伝えました。これが、今日の聖書箇所の文字通りの意味です。

しかし、この聖書箇所が、私たちに教えているのは、神様の救いの恵みを褒め称える内容です。人間は、神様の御前に罪を犯してしまい、神様の怒りを招いてしまいました。滅ぼされる存在である人間に、神様の赦しの恵みと慰めが与えられるという意味です。

イザヤ書12章1節をもう一度読みましょう。
「その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。」

神様の救いの恵みの本質は、慰めです。

新約聖書をみすと、もっと具体的に、救いの意味を悟る事ができます。エペソ信徒への手紙2章3〜5節です。

「 2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
Eph. 2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
Eph. 2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、— — あなたがたの救われたのは恵みによるのです— — 」

使徒パウロは、私たちが経験した救いの恵みの本質をどのように表現しているのでしょうか。生まれながら神の怒りを受けるべきものであった私たちが、変えて、神様の憐れみを、愛を受ける存在になったと語っています。

預言者イザヤは、使徒パウロより、神様の救いの恵みを、もっと早く経験して、次にように告白しました。イザヤ1章6節です。

「 頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない。」

預言者ホセアの告白も聞いてみましょう。ホセア書6章1節です。

「「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」

親たちは、子供達の教育の為に、厳しく叱る時もあります。しかし、叱った後は、もっと偉大な愛を持って慰めて下さいます。それが、神様が、私たちに与えてくださる救いの恵みです。怒りではなく、もっと大きな慰めを持って私たちを憐れんで下さる神様の救いの恵みを、私たちは、毎日、褒め称える信仰生活をしなければなりません。

第二に、救いの恵みの本質は、恐れではなく信頼です。

私たちに与えられる救いの恵みに対して、イザヤは次のように言い表しています。イザヤ書12章2節です。

「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」

救いの恵みの本質は、神様を恐れるのではなく、神様を信頼することです。

ユダヤ人達は、同じ告白の歌を捧げた時がありました。葦の海が二つに分けられた奇跡の経験した後でした。後ろには、エジプト軍が襲いかかろうとしている、前には葦の海がありました。ユダヤ人達には、救われる道が見えない緊迫した時でした。

出エジプト記14章を見ると、ユダヤ人達は、ものすごく恐れていました。その時、モーセは、ユダヤ人達に、次のように宣言します。出エジプト14章13節です。

「モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」

やがって、葦の海が分けられて、神様の救いの業を経験したユダヤ人達は、神様に次のような賛美を捧げます。出エジプト15章2節。

「主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」

john Kenneth gallbraithという経済学者がいました。彼は、その時代、1977年の特徴は、不確実性の時代と言いました。彼によると、私たちは、次の瞬間何が起こるか予測できないので、不安的で、恐ろしい日常を過ごすようになるそうです。

「有名な神学者paul tillichという人物は、全ての人間には存在論的な恐ろしさと目的論的な恐ろしさがあると言いました。死は、人間の存在を脅かす存在論的な恐ろしさで、結局、私も、私の人生の目的を全うせず、この世を離れるという恐ろしさが、目的論的な恐ろしさと言いました。」

このような不確実的な世を生きている私たちに、永遠に存在し、信頼できる方がおられます。そのお方は、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの羊飼いなので、私たちを緑の牧場に導いてくださいます。イエス・キリストの導きによって私たちは、日々、生かされています。どれほど感謝な事実でしょうか。

マルコによる福音書を見ると、ヤイロという人が登場します。彼には、幼い娘がいましたが、その娘は、難病で死にそうな状態でした。彼は、イエス・キリストに娘の癒しを求めています。しかし、彼の家から人々が来て、娘がなくなったと伝えました。希望がなくなった本当に絶望的な瞬間でした。その時、イエス・キリストは、次のように語られました。マルコによる福音書5章36節。

「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。」

これが、私たちが経験している救いの恵みの本質です。恐れに覆われているこの世で、信頼出来るお方が私たちを毎日見守っておられるということは、どれほど大きな恵みでしょうか。

第三に、救いの恵みの本質は、渇きが癒される喜びです。
イザヤは、救われた人々が、経験した救いの恵みの本質を絶妙的な言葉で表現しました。イザヤ書12章3節を読みましょう。

「あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」

イザヤは、私たちが、救いの泉から水を汲むと言っています。つまり、私たちは、もはや、渇きで苦しむ必要がないと、イザヤは語っています。イザヤの預言通り、救いの泉としてイエス・キリストが、この世に来られました。イエス・キリストは、一生涯、飢え渇きで迷っているサマリヤの女に驚くべき約束を与えてくださいました。ヨハネによる福音書4章14節です。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」」

これが、救いの恵みの本質です。救いの恵みは、私たちのうちに命の泉として永遠に存在する事です。これが、イエス・キリストを信じる私たちが、体験出来る救いの恵みの本質です。命の泉が、私たちの外ではなく、うちに存在すること、それが救いの恵みの本質です。

サマリヤの女の人の応答を探してみたいと思います。彼女は、水がめを置いたまま、急いで町に戻ります。また、人々に、メシアに会ったと宣べ伝えました。サマリアの女の人は、自分自身が経験した救いの恵みを表したかったのです。そのような生き方が、真の救いの恵みを経験した人々の姿ではないでしょうか。

イザヤは、救いの泉の水で、渇きを癒された喜びを次のように言い表しました。イザヤ書12章4節です。

「その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。」

 

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