復活の希望になられたイエス・キリスト

コリントという都市は、昔、グローバルビジネスの中心でした。商業が栄え、貿易が活発に行われていた都市でした。コリントは、狭い海峡に位置して、東と西を繋ぐ橋のような役割を果たしていました。世の全てのぜいたく品が、コリントを通して販売されていました。アラビアの香油、ベニげのナツメのヤシの実、リビアの象牙、ギルリキアのヤギの毛、ルカニアの毛織物等、当時、高価な物は、全て、コリントで、取引されていました。それだけではありませんでした。外国人が、それも、商売人が沢山集まるということで、人身売買も横行していた都市でした。また、コリントには、オリンピックに次ぐスポーツ祭りが、定期的に、開催されていました。当時の巨大な富が、コリントを通して流されていたのです。また、人口もどんどん増えていました。

しかし、それらと共に罪と不道徳的な物もあふれていました。酒、賭博、ポルノ、同性愛、麻薬があふれていました。また、コリントには、大きな神殿がありました。その神殿では、女の人が沢山働いていました。つまり、その神殿で行われていたのは、礼拝ではなく、売春が公に行われていたということです。

人々は、そのようなコリントを、地上の天国だと思い込んでいました。それで、人々は、地上の天国であるコリントで、長生きをするために、健康にいいあらゆる薬を世のあちこちから輸入しました。

しかし、そのようなコリントの人々にも、不便な真実がありました。いくら体にいい薬を沢山飲んでも、体の死から完全に逃れることが出来ないということです。

ところが、ある日、そのコリントに、パウルという人物が尋ねました。パウルという人物を通して、福音がコリントの人々に伝えられたのです。その福音は、コリントという都市を揺るがす巨大な衝撃波でした。使徒パウロを通して、享楽な都市、コリントに伝えられた福音の本質は、一体、どういうものだったでしょう。今日の御言葉に基づいて、享楽な都市、コリントに伝えられた福音の本質がなんであるかを、共に考える時間を持ちたいと思います。三つに分けて考えてみたいと思います。

第一、福音は、イエス・キリストが私たちを罪から救って下さるという良い知らせです。

なぜ、人々は、罪を犯しているのでしょうか。それは、罪がもたらす快楽のせいではないかなと思います。ヘブライ人への手紙11章25節を共に読みましょう。

「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び」

罪の楽しみという言葉があります。つまり、罪が、私たちに与えるある楽しみがあるという意味です。何よりも、私たちが、注意を払うべき言葉が一つあります。それは、「はかない」という言葉です。罪が与えるはかない楽しみが消え去ると、人間は、罪悪感という長くて、暗闇のようなトンネルの中を歩まなければなりません。罪や、罪悪感の中で生きている人間を救って下さる為に、イエス・キリストが、この世に来られました。それが、福音の本質です。使徒パウロは。その福音の本質を宣べ伝える為に、コリントに来たと語っています。コリント信徒への手紙15章1ー2節を共に読みましょう。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。

どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」

そうです。福音は、イエス・キリストを信じる信仰によって、救われることです。その救いは、罪からの救いです。

全ての人間が持っている実存的な問題は、罪ということではないかなと思います。罪という問題を解決しないと、誰一人も救われることは出来ません。人間の罪の問題を解決する為に、神様は、イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。15章3節を見ましょう。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」

イエス・キリストは、単に、この世にこられたわけでは決してありません。私たちの罪の為に、私たちの代わりに、死ぬ為にこの世にこられたと、使徒、パウロは語っています。

コリントからあんまり遠くない所には、アテネという都市がありました。アテネという都市は、優れた哲学で有名でした。そのアテネの哲学は、既に、コリントにも大きな影響を与えていたのです。しかし、問題は、その優れたアテネの哲学も、コリントの人々が持っている罪悪感や罪の問題を解決してくれることが出来なかったということです。

当時、エピキュリアンという哲学者たちがありました。エピキュリアンは、快楽主義者たちです。彼らが、主張しているのは、罪と罪悪感を考えず、ただ、人生を楽しめばいいということです。しかし、如何でしょうか。全ての人間には、良心というものがありますね。罪や罪悪感を考えず、人生のみを楽しむことは出来ないと思います。また、ストアという哲学者たちがありました。彼らを、禁欲主義者です。彼らは、罪を犯さないように謹慎することを主張します。しかし、この世を離れ、謹慎するということは、そんなに簡単なことではないと思います。

では、聖書は、罪の解決に対して、どのように語っているのでしょうか。ヘブライ人への手紙9章22節には次のように記されています。

「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」

「血を流すことなしには罪の赦しはない」と聖書は、語っています。また、聖書は、次のように記しています。もう一度、15章3節を見ましょう。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」

神様の御子であるイエス・キリストが、この世に来られ、私たちの罪を背負って十字架の上で死んで下さいました。イエス・キリストが、十字架の上で流して下さった血潮で、私たちの罪は、赦されたのです。聖書もう一箇所を探してみたいと思います。エフェソの信徒への手紙1章7節です。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」

これが、快楽の都市、コリントに伝えられた福音であり、今も、私たちが聞く必要がある福音であると、私は思います。

第二、福音は、復活の希望を与える良い知らせです。

地上の天国で生きているコリントの人々には、明白に、否定出来ない事実が一つありました。それは、全ての人間は、死ぬということです。深く考えてみると、コリントの人々が、もっと、刺激的な快楽を求めた理由が、そこにあったかなと思います。死んだ後のことを全然知らないので、生きている間、人生を楽しく過ごしたいのが、コリントの人々の考えではないかなと思います。

ある人が、面白い話をしました。私たちが、この世で、確かにすべきことは、税金を払うことと、死ぬことであると。しかし、悪賢い人は、税金を払う義務から逃れますね。しかし、いくら悪賢い人でも、税金から逃れることは出来ますが、死から逃れることは、出来ません。人間にとって、死ぬ確率は、100パーセントです。全ての人間は、いずれ死にます。

ある教会に日曜学校の先生が、子供たちに、次のような質問をしました。

「皆さん!皆さんが、天国に行く為に必要なことはなんですか」

この質問をした先生が期待していた答えは、「イエス・キリストを信じる信仰です」という答えだと思います。しかし、ある子供が、躊躇せず、手を上げながら答えました。

「まず、死ぬ必要があります」

事実ですね。死なずに、天国に行くことが出来る人は、誰一人もいないと思います。ほどんどのコリントの人々は、死んだ後、魂だけがあるところに行くと思い込んでいました。アテネの哲学の影響だと思います。

しかし、パウロは、死んだ後、体のよみがりがあり、そのよみがえられた体で、私たちは、永遠に生きると語っています。その復活の証拠が、イエス・キリストだと、使徒パウロは、語り続けています。使徒パウロは、イエス・キリストの死によって、私たちの罪の問題が解決され、イエス・キリストの復活によって、私たちの死後の問題も解決されたと語っています。

それで、福音は、イエス・キリストの死だけではありません。福音は、イエス・キリストの死と復活です。それが、15章4節に記されている内容です。

「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」

使徒パウロは、5〜8節で、イエス・キリストの復活が、真実であることを説明する為に、否定出来な証拠を提示しています。

「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」

「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っていま⿀」

「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」

よみがえられたイエス・キリストは、ダマスコで、パウロに会って下さり、使徒として召して下さいました。それと同じように、よみがえられたイエス・キリストが、私たち一人一人に会って下さったんじゃありませんか。よみがえられたイエス・キリストが、私たちに会ってくださいましたので、今、私たちは、ここで礼拝を捧げています。イエス・キリストは、この世にこられて、十字架の上で死んで下さいました。その死によって、私たちの罪は赦されました。また、イエス・キリストは、三日目によみがえられました。その復活によって、私たちには、永遠に生きる希望が与えられています。

第三、福音は、この世での勝利の人生の約束です。

復活の信仰は、単に、将来のことだけを意味するのではありません。私たちが、どういう未来を待ち望むかのよって、今の私たちの人生が変わると思います。死んだ後、天国と復活があるということを信じているならば、今を生きている私たちは、もっと、希望に満たされている人生を過ごす事が出来るのではないかなと思います。

私たちは、明らかに示されている将来を待ち望んでいます。愛する兄弟姉妹達に再開する事、愛しる家族に再開して、復活された体を持って永遠に生きることを待ち望んでいます。暗闇のような将来を、不安感を持って、ただ、待っているのでは決してありません。

使徒パウロは、よみがえられたイエス・キリストが、私たちに勝利の人生を過ごす事が出来るように、力を与えて下さると語っています。復活されたイエス・キリストの力が私たちを囲んでいるので、私たちは、世の誘惑に、あらゆる試練に打ち勝つ事が出来ると語っています。15章57節と58節を共に読みましょう

「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

新聖歌267番はキリストは生きておられるという讃美です。元々は、英語の賛美なんですが、日本語で翻訳されています。

Because He lives, I can face tomorrow

Because He lives, all fear is gone.

Because I know, I know, He holds the future

And life is worth the living, just because He lives.

イエス・キリストが生きておられるので、全ての悩み、苦しみは消え去ったのです。生きておられるイエス・キリストが、私たちの将来を支えて下さっている事を、私たちが知っています。それで、私たちは、生きる価値があります。これが、使徒パウロが、コリントの人々に宣べ伝えて福音です。

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