イエス・キリストに見倣う教会

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1-11節

私たちクリスチャンは、神様の恵みがなければ生きる事自体が出来ない存在だ思います。2016年は、神様の恵みによって、教会が、また、教会に属している一人一人が生かされた一年だと思います。2016年、私たちは、神様に、心をこめて祈りました。教会と聖徒一人一人を養って下さいますようにと。私たちが信じている神様は、真実なお方であり、私たちを愛しておられるお方なので、私たちの祈りを叶えて下さいました。

教会の皆様は、2016年、神様が、教会に、また、一人一人に、与えて下さった恵みを分かち合って下さいました。 「説教者が与えられて聖日を安定的に守る事が出来たこと」「韓国から短期チームが来て共に交わりを持つことが出来たこと」「新来会者が与えられた事」「教会の会堂のエアコンが新しく設置されたこと」「教会へきて人生が変わったこと」「教会で続けて礼拝を捧げる事が出来たこと」「教会をしばらくの間休んだ方達が来られるようになっていること」「会員の方や会員の家族の手術が成功されたこと」「教会員との交わりが出来たこと」「遣わされた会社で定年まで働く事が出来たこと」等。私たちを様々な方法で養って下さり、生かして下さった神様に感謝いたします。

2017年は、私たちを生かして下さった神様に、また、生きる力と恵みを与えて下さった神様に応答する信仰生活を皆さんと共にしたいと思います。それは「イエス・キリストに見倣う教会」を目指すことです。「イエス・キリストに見倣う」というのは、イエス・キリストの弟子である私たちに当たり前の信仰生活ではないかと思います。私たちが「イエス・キリストに見倣う」必要なことが三つあると思います。

第一、愛を持って、犠牲を払う人生です。

6ー8節をもう一度読んでみたいと思います。

「 Phil. 2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、

Phil. 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、

Phil. 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

実に、イエス・キリストは、私たちを愛されたので、ご自身を無にして、僕の身分になられ、人間と同じ者になられました。それだけではありません。イエス・キリストは、私たちを救って下さる為に、十字架の上で、ご自身の命を惜しみなく捧げました。イエス・キリストが、十字架の上で死んで下った究極的な目的は何でしょうか。それは、言うまでもなく、私たちを救って下さるためなのです。イエス・キリストは、私たちに救済の恵みを与えて下さるために、大きな犠牲をお払いになりました。エフェソへの信徒への手紙5章2節を読みましょう。

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

2016年、私たちは、様々な伝道イベントをしました。それをした理由は言うまでもありません。伝道する為です。2016年の様々な伝道イベントは、全部済みましたが、私たちが全うすべき伝道の義務は、終わっているのではありません。隣人や家族の救いのために、祈り続ける必要があり、伝道し続ける必要があると思います。伝道という使命を全うするために私たちに要求されているのが、犠牲ではないかと思います。

皆さん!タイタニックという映画を見たことがありますか。その映画は、私たちに色んな教訓を与えた映画だったと思います。当時タイタニックが沈没した時、その船に乗船した人は、約2,208名だったそうです。しかし、タイタニックに準備された救助船やライフジャケットは、十分ではありませんでした。2,208名の中で、1,513名は、結局、自分自身の命を諦めざるを得ませんでした。もし、その時、皆さんが、その場におられたらどのように行動されたと思いますか。タイタニックに乗った人々の中で、船舶会社の社長であるBruce Ismayという人がいたそうです。 彼は、自分の家来、秘書、また、多くの船客を捨てて一人で逃げました。彼は、自分自身の命を保つ事が出来ましたが、世間から厳しく非難される人生を過ごさなければなりませんでした。

しかし、本当に感動的な話もありました。タイタニックの船長であるジョン・スミスは、最後まで、船客達を救助して、船と一緒に、冷たい海に没してしまったそうです。ニューヨークの有名なメイシーデパートのオーナー・シュトラウス夫婦の話しです。ご主人が、救命船に乗る事を拒否して、他の人々を助ける為に残ったそうです。それで、シュトラウスの奥さんも、自分の家来だけを救命船に乗せて、ご主人と共にタイタニック残り、冷たい海に没してしまったそうです。また、ウォレス・ハートレーは、自分の楽団と共に、逃げずに、沈没10分まで、「主を、みもとに」という讃美歌320を演奏して、死の恐怖に襲われている人々に天国の希望を与えたそうです。

皆さん、私たちは、如何でしょうか。そのような極端的な状況ではなくても、私たちは、平凡な生活の中で、隣人を思いやり、その人々の救いの為に、犠牲を払う人生を過ごしているのでしょうか。十字架に掛けられたその短い瞬間さえ、隣の十字架に掛けられた強盗に天国に入る事を約束して、彼を慰められたイエス・キリストのような人生を過ごしているのでしょうか。

私たちが、イエス・キリストに見倣うべきことは、犠牲を払うことだと思います。自分自身の利益のために犠牲を払うのではなく、神様の御国のために、教会のために、一人の魂を神様に導くために、犠牲を払いながら2017年を過ごしましょう。

第二、世の誘惑に打ち勝つ人生を過ごすことです。

1−5節をも一度読んでみたいと思います。

Phil. 2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

Phil. 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。

Phil. 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

Phil. 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

Phil. 2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。  」

聖書は、イエス・キリストも、この世におられた時、私たちのように、世の様々なことに誘惑されたと記しています。イエス・キリストも、富や権力の誘惑を受けられた時が多くありました。しかし、イエス・キリストは、そのような誘惑に打ち勝つ人生を過ごされました。私たちも、イエス・キリストに見倣う人生を過ごすためには、世の誘惑に打ち勝つ人生を目指すべきではないかなと思います。

 

フィリピの信徒への手紙2章3節には、私たちを惑わす世の誘惑がどういう事であるかが記されています。それは、「利己心」 「虚栄心」というものです。使徒パウロは、私たちがイエス・キリストに見倣うためには、そのような誘惑に、必ず、打ち勝つべきだと語っています。

韓国には、人口の30%がクリスチャンです。また、あちこちで、教会が沢山あります。良い話か話どうかわかりませんが、韓国では、教会がある所を探すより、教会がない所を探すのがもっと難しいそうです。それくらい教会が沢山あるという事です。しかし、教会が、そんなに沢山あるにも関わらず、信仰者の数は、どんどん減っているそうです。何幾つかの原因が見出されましたが、それらの中で、クリスチャン達の利己心が一番な深刻な原因だそうです。

皆さん!如何でしょうか。クリスチャン達の利己心が、韓国の教会だけの問題だと思われるでしょうか。

悪魔が、世の全てをイエス・キリストに見せながら、イエス・キリストを誘惑した時、イエス・キリストが答えられた御言葉を覚えておられるでしょうか。マタイの福音書4章10節をご一緒に読みましょう。

Matt. 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」」

「ただ主につかえよ」という言葉がここで強調されています。世の物質ではなく、世の権力ではなく、ひたすら、神様にだけ仕える人生を過ごしなさいという意味なのです。神様より、楽しい事があり、大事な事があると信じて、それで、そとに心が向いてしまった瞬間、私たちは、偶像礼拝に落ち入れってしまいます。イエス・キリストは、一生涯、ひたすら、神様のみに使えました。また、神様だけを礼拝するご生涯を過ごされました。神様だけを楽しみにしながら過ごされたご生涯でした。私たちは、イエス・キリストの弟子です。私たちが、イエス・キリストに見倣うことを、イエス・キリストは、切に、願っておられます。それを全うする為には、世の様々な誘惑に打ち勝つ人生を過ごさなければなりません。

エペソへの信徒信徒への手紙5章5節を読んでみたいと思います。

Eph. 5:5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」

第三、 感謝の言葉で、私たちの人生を満たすことです。

私たちの日常の生活を豊かにする肝心なポイントが一つあります。それは、私たちが使っている言葉です。哲学者ハイデッガーは、「言葉は存在の家」だと言い表しました。その表現の意味は「言葉は、私たちの生き方に大きな影響を与えるもの」だという意味だそうです。私達クリスチャンが、イエス・キリストに見倣う為には、イエス・キリストが用いられたような言葉を、私たちが身につける必要があります。イエス・キリストは、何時も、父なる神様に感謝するご生涯を過ごされました。イエス・キリストは、十字架の死をも、感謝の心をこめて受け入れられました。エペソへの信徒への手紙5章4節を読みましょう。

Eph. 5:4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」

私たちが、真のイエス・キリストの弟子であるなら、どういう言い方を選ぶべきでしょうか。私たちが、祈りを捧げる時であれ、話をする時であれ、感謝が溢れる言葉を使うのがふさわしいのではないでしょうか。私は、クリスチャンとクリスチャンではない人との間には、明らかに、一つの異なることがあると思います。それは、感謝の言葉です。感謝というものは、キリスト教の代表的なものだと思います。ある人がキリスト教に見事な言葉が一つあると言いました。それは、「感謝」と「赦し」という単語です。イエス・キリストに見倣う為に私たちに必要なことは、イエス・キリストのように、感謝の言葉を用いることです。 テサロニケの信徒への手紙一 5章18節を共に読んだ後今日の説教を終わりたいと思います。

1Th. 5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

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